睦月、流行病を患う。
ご挨拶
こんにちは、ほそやです。
ヨルシカのアルバム中盤くらいのインストゥルメンタルにありそうなタイトルですが(ない)、その通り、私、実は1月の中頃から例のコから始まる流行病に罹っていました。
今回は療養生活にあたって感じたことや一人暮らしの学生がコに罹るとどうなるのか、ということを(戒めの意味も込めて)綴っていきたいと思います。
感染基本情報
1月に発症。
味覚障害ナシ、発熱アリ、感染経路不明、自分からの感染者ナシ。虚言癖アリ(今回は誓って虚言ではない)
10日間程度のホテル療養。
1月6日(水) 発症
前日の夜から、体がだるく、日をまたいだ頃に熱を測ると37度強の熱が!
やばいよやばいよやばいよやばいよ!
この時点で通常、100人ほどの心の中の出○哲朗が1万人に増殖し、胸に語りかけます。
急いで、前日会食をしていた2人の友人(結果的に数週間の自宅待機を強いることになりました・・・本当にごめんなさいでした。)、その日シフトのあったバイト先、家族に連絡し、朝のうちに保健所にも電話。
近くの病院でPCR検査を受けるように言われます。
だるい体を起こして運転、病院到着後、少し待たされ、PCRとインフルエンザの検査を受けます。
インフルエンザの検査はすぐに結果が出ますが、PCRは翌日に繰り越し・・・
しかも、インフルは陰性だったので、コ半確定。
「CRコ○ナウイルス、激熱演出ゥ~」とかパチンコ屋の向かいの駐車場で回らない頭で考え、帰宅。
その後、心配した父親が長野から来てくれました。
顔は合わせず、ドアの前に物資だけ置いて行ってくれました。
マジで感謝。初任給で何かプレゼントするよ、俺、内定取れたらだけど・・・
身の振る舞いや今後の行動についてネットなどで調べながら、就寝。
熱はこの時がピークで39度以上ありました(ちゅらい・・・)
しかも、周りへの申し訳なさで気持ちも落ち込んでいました。
1月7日 感染判明
午前中、病院から電話があり「あなたはコ○ナに感染しました。気を強く持ってくださいね」というようなことを言われました。
ああ、気を強く持たなければ乗り越えられないのか、と思いました。
その後、保健所からも電話があり「明日メディカルチェックを受けてください」と伝えられました。
このメディカルチェックで重症度を判別しホテル療養か入院か決めるんですね。
ちなみに独り身だと、自宅療養の選択肢はほぼないようです。
感染が確定した旨をバイト先や家族、会食に行った友達2人などに連絡。
そして、ここで問題発生!!
翌日締め切りの我らが建○デザ○ン概論のレポートが!
しかも、支援室への直接提出!???この時世にアホか???
転学した関係もあり、単位は絶対に落とせない!!
熱も37度台まで下がっていたので、気合で日本語の体を成している怪文書を作成。
近くに住んでいる友達にデータだけ送り、翌日、友達が出してくれました。
(A4 10枚書くところを1枚で単位きたのはガチで奇跡)
1月8日 メディカルチェック&ホテル療養開始
午前中は療養に備え、荷造り。
この時点でほぼ解熱。
2,3日分の着替え、野菜ジュース、カップ麺、ポテチ、チョコレート、スープの素、ココア、コーヒー、リップクリーム、野球ボール、PS4、数冊の本、作業に必要なパソコン、クロッキー帳、マーカー、スキャナ、などをホームセンターのBOXに詰め込みます。
手で持てる分なら物量制限はないのでありったけ詰め込みました。
結果的に重宝したのは野菜ジュースとお菓子系、野球ボールとPS4ですね。特に野球ボールは手で遊んだり足で転がしたりして気がまぎれました。
14:00頃にメディカルチェックをデカ病院まで受けに行きます。
マックのドライブスルーばりに車で乗り付け、スタバの注文程度の手続きをした後、受診、帰宅。
ホテル療養が電話で伝えられます。
帰宅後、18:00ごろに迎えが来ました。
運転手さんは、完全防護服!!
停車したハイエースのライトが眩しく、ギラギラ光っていました。
後部座席に乗車すると、運転手のおっちゃんが話しかけてくれました。
「災難だったね。」
「これから行くホテルはいいところだから」
「復活したらスーパーマンだぜ。滑らない話だろ?」
「俺はこんな仕事してるから嫁さんと子供に距離置かれてるけど、ショッピングモール行くほうがよっぽど怖いわ」
「ホテルは酒・タバコは原則ダメだけど、裏ルートがあるらしいよ」
おっちゃん、人が良すぎる!!
釈迦か仏陀か?はたまたキリストの生まれ変わりか?
おっちゃんには幸せに生きてもらいたい。
そんな会話をしながら、ホテルに到着。
部屋に入ると、普通のホテルの部屋、上のほうの階なので景色が良い印象でした。
最低限の手続きのみで部屋に直行し、内線で諸々の注意事項を確認しました。
荷ほどきをして、落ち着いていると、ここ数日の出来事が思い出されました。
ああ、周囲の人間に恵まれたなあ。
なんで、こんな自分にあんなに親切にしてくれるんだろう。
仕事を休んで長野から駆けつけてくれた親、
責めることなく理解を示してくれた友人OとN、
買い出しやレポート提出をしてくれたK、
元気づけてくれたS、
「できることがあったらなんでも言ってください」と言ってくれた塾長、
「復帰はいつでもいいからお大事にしてください」と言ってくれたバ先の社員さん
病院の先生、看護師さん、運転手さん
沢山の人に支えられて生活しているんだなあ、それとともにどうしても僕たちは社会で生きているんだなあ、ありがとう社会
と柄にもないですが感謝の気持ちがこみ上げてきました。
そのまましんみりと就寝。
1月9-15日 療養生活
療養生活における強制的なイベントは2つ、「食事」と「検温」これだけです。
食事は8:00、12:00、18:00の三食。
廊下に弁当とカップ麺、みそ汁の素などが置かれており、アナウンス後、取って部屋で食べます。
この時にカップヌードルを食いすぎたせいで最近まで「カップ麺はもういい・・・」になっていました。
割りばし、シーツやタオル、ゴミ袋などの生活必需品もこの時に取る決まりでした。
療養生活における外出はこれとゴミ捨ての機会しかなかったので、廊下を歩くだけのことが一大イベントになっていました。
弁当は品目も豊富で量も多く、満足でした。
あと味覚がやられてなかったのもデカかったです。
検温も朝昼夜の三回。
体温とSPO2(血中酸素濃度)を測り、スマホからデータを送信していました。
また、それに伴って、内線でお医者さんと、会話し、味覚があるか、など確認しました。
それ以外の時間はゲームをしたりゲームをしたりゲームをしたり、ポートフォリオを作ったり、制作にあてたり、アニメを見たり、本を読んだり、人と通話したりしていました。
人と話す、ガチで大事!!人と話さんと心が死ぬ!!
あと、ホテルの電波が弱かったので、通信環境がなくてもある程度できるゲームを持っていきました。デスストおもれー。その後。頑張ったら、ストⅢとかもできました。
娯楽用品は多い方がいいですね。
そんなこんなで、ダラダラ毎日過ごしていたら、ぼんやりと意外とすぐに時間は過ぎていきました。
1月16日 退所
退所時は自力で帰ってくださいと言われたのでタクシーを呼びました。
帰宅中に街中を人が普通に歩いているのを目にして、少し感動してしまいました。
あれ、こんなに人っていたんだ・・・
何しろ、この10日間、世界が自分一人で完結していたのですから・・・
帰宅して、ベッドの上に座るととても不思議な気持ちがしました。
その後、少しずつ買い出しに行ったりして元の生活に戻っていきました…
所感
ガチでコには罹らんほうがいいです。熱やだるさもありますし、何より周囲への連絡と申し訳なさがキツイ!
遊ぶな、出かけるなとは言いませんが、常に感染の危険があることを意識したほうがええです。
本当にどこで感染するか分かりません。
自分も感染の2週間前までに会った人間で感染した人は確認できていないので、なんかのすれ違いざまとか、バイトの接客中とかも候補としてあるなーという感じです。
加えて、普段会う人を特定の範囲にとどめておくことも大切だと思います。
仲がいいほうの友達ですら自宅待機にさせてしまった申し訳なさがヤバいのに、知り合い程度の人だったら死んで詫びても足りないし気まずさもエグいと思われる・・・
また、僕の場合は感染した中でも恵まれたケースだったと思います。
周囲のサポートに恵まれたこと、熱がすぐ下がったこと、咳や鼻水もほぼなかったこと、味覚がイカれなかったこと、すぐに良いホテルに入れる地域にいたこと、自分からうつした人がいなかったことなど、諸々ラッキーだったと思います。
また、療養中は、結構自分の中の考えを整理したり、物事について考えたりできたのでそれはそれでよかったです。
最後に
復帰後、公には話していませんでしたがそろそろ時効かと思い、忘れないうちに自分の記録もかねてつらつらと深夜3時に書きました。
こんなんになるんだな〜と思っていただければ幸いです。
サポートしてくれた方々、ご迷惑かけた方々、本当にありがとうございました。
記事を読んでくれた方も流行病にはお気をつけ遊ばせ!!
でわでわ。
フライヤーイェッタイガー
1. ご挨拶
こんてちは!元klis18*¹のほそやです!
所持資格は漢検8級*²、キモオタク顔所持者甲種、にぎりっぺ技術士3級、HDMI2級、ベッドダイビングC級、虚言士特級です!!!!!!!
御社で働けます!働かせてください!!!
ということで、カンボジアに建てられた学校とバイトリーダーの数がモリモリと増える冬、、、
春日にお住まいの皆様はいかがお過ごしでしょうか?
僕は春日食堂のシャバシャバなカレーが少し恋しいです。多分一口で飽きるけど
3年生も終盤、自分のやってきたことや好きなことについて考える機会が多くなってきましたが、今回はその中でも制作してきたフライヤーについて、特にDJクラブのものについて書いていきたいと思います!
この記事は第二のklis Advent Calendar 2020 - Adventarの14日目の記事として書かせていただきます!
*¹ klis18だった過去(前年の記事)
twilight-sparkling.hatenablog.com
*² 漢検8級=小学生3年生修了程度
*³ 筆者はnoobeatsというサブカルDJパーティーに所属している。klisの人間が多い。#noobeats_DJ、絶賛メンバー募集中。
2. フライヤーって?
フライヤーは飛行機からバラまかれていた*⁴ことからflyer、フライヤーという名前がついたと言われます。
似たものにチラシやビラなどがありますが、フライヤーはイベントの告知に使われたり、店頭ラックに置かれたりすることが多いようです。
ちょっといい紙を使ったりサイズがチラシやビラよりも小さい傾向にあるみたい。
特にライブやクラブなどのイベントにはフライヤーはつきもので、毎イベントごとにフライヤー作成されます。
フライヤーの与える印象はそのイベントのイメージ形成に直結します。
見栄えの良いフライヤーやイベントコンセプトを盛り込んだフライヤーがあるとイベントの成功につながるってハッキリわかんだね。
*⁴ 戦時中のプロパガンダには謎のロマンがありますね。フライヤーが登場する「キャプテンサンダーボルト(伊坂幸太郎・阿部和重)」という小説があり、ガチでオヌヌメ。ガチの徹夜本。
3. DJイベントのフライヤーの要素
フライヤーに載せる情報には
- イベント名
- 日時
- 場所
- 参加料、入場料、チケット代
- 演者
- 煽り文
- 問い合わせ先、SNSアカウント
- 推奨ハッシュタグ(オタク系イベだと多い)
- 配信urlやQRコード(オンライン配信イベントの場合)
- タイムテーブル(フライヤーとは別紙の場合が多い)
などがあります。意外と多い。
僕はこれらの情報をテキストで出して整理してからレイアウト作業に移っています。
ドリンクの表記の仕方がいっぱいあってややこしい件。
— AiKA (@aika_ymmt) 2020年10月18日
動画では都合上わかりにくいのをピックアップしてますが、こちらが完全版になります !#クラブマナー講座 pic.twitter.com/oLQn0WhTVQ
↑ 入場料とドリンク代の表記方法、まとめガチでたすかる
また、依頼主やイベントのオーガナイザーからコンセプトやこういうイベントにしたいという話を聞いておくと良いでしょう。というか聞いていないと何も作れません。
「なんかかっこいい感じにつくって!」
士ね。
うちのパーティーのオーガナイザーなんかは歴代みんな慣れたもので短い時間でも、結構やりやすいです。(いつも納期ギリギリでごめんなさい。
4. 実際にフライヤー作成
載せる要素をリストアップしたら、具体的なレイアウトに移ります。実際に制作したフライヤーを使って説明していきます。
このフライヤーは先日行われた所属パーティー「noobeats」のフライヤーです。
先ほど書いた要素をもりこんだものとなっています。また、新DJのデビュー回であり新しいパーティーの雰囲気を感じさせられたらな、という気持ちがありました。
・フォント
まず、僕は使用するフォントから決めていきます。フォントからイメージを作っていくといったところでしょうか。
タイトルの「noobeats」という文字をイラレで色んな字体で打ち、比べていきます。
欧文だと大体「Futura」か「DIN」か「Impact」か、和文はVDL系や新ゴ系、小塚系が好みで、オタク受けもよいので毎回そこら辺に落ち着きます。
使用するフォント数は、目を引くタイトルや見出しに欧文和文一つずつ、地の文にも一つずつで最大でも4種類くらいです。また、同じファミリーにBoldやItaricなどのバージョンが揃っていれば便利です。
今回は結局、ポップさとエレガントさがある「Futura」を使用しました。
・画面づくりのアイデア
毎回noobeatsのフライヤーにはデカデカと回数を入れているので今回も「6」という数字から画面を作っていこうと思い立ちました。悪魔のすうじです。
ノートに6という数字を書き、6のOの部分はレコードやCDににてるなあ、円というと何かが広がっていく様子にもみえるなあ、高校の顧問の車ナンバーは666だったなあ、パチンコかなあ、とか連想しました。
そして「新DJの鳴らす音の波がnoobeatsという水面に影響を与える」、「CDやレコードから配信データ。つまり波形に」というアイデアを考えました。
このようなアイデア出しには、毎回1.2時間くらいかかっていると思います。
また、このようなアイデア出しを飛ばして、Pinterestとかでテキトーに漁った画像から着想を得て作成する場合もあります。
・イラレで配置、配色
イラレでテキストやロゴ、オブジェクトなどを配置していきます。
配色はいつも白黒+2.3色を意識しています。
最後まで決まり切らないときもあります。
配置や重ね順など、おもいつく限りのバリエーションを試して満足いくものを探します。
ごちゃごちゃするとダメです。シンプルイズベスト。
字間は適当か、しっかり揃えてあるか、など細かいところも見ていきます。
pdfとpngに書き出して完成です。
5.制作物
僕が過去に作ったものを紹介したいと思います。
6.最後に
制作してきたフライヤーやその制作プロセス、アイデア出しなどについてまとめました。「いいフライヤーのあるイベントはいいイベント」と正岡子規もどっかで言っていたようにフライヤーはイベントの宣伝として大変重要な要素です。
そして、自分がフライヤーでイベントに貢献できるとものすごくうれしいです。
ツイッターで少しでも反響があるとうれしくて泣いてしまいます。
アイデアさえあれば、技術はそこまでいりません。パワポでも作れます。(現に絵を描いたフライヤーは3分の一くらい)
皆さんももし機会があったらチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
では最後に恒例のklisコールで締めたいと思います。
スゥゥゥ・・・
klis最高イェッタイガー!!!!!
ではまたの機会に!
チー牛アイドル
アイドル多田李衣菜のお気に入りは3種のとろーりチーズ牛丼。
これは家族も、友達も、プロデューサーも、ファンも、ミミズだって オケラだって、アメンボだって、ロックの神様だって、みんな みんな知っていること。
現場のケータリングも、いつもチーズ牛丼だし、なんなら、そのあとのプライベートでもすき家を訪れる。
そして、いつからか、彼女のロックアイドルとしてのアイデンティティは失われ、代わりに世間からはチー牛系アイドルとして認知されるようになった。
チー牛の仕事をこなし、チズ牛代を稼ぎ、チズ牛を食べる毎日。
彼女は自著「チズ牛ロック論」を出版するまでになった。
以下、抜粋
「チー牛がロックだっていうのは当たり前で、その逆で、ロックってチズ牛だなって思えるようにならないといけないんですよ(2020, 多田, "チズ牛ロック論", 87p.)」
そんな最中である、チー牛顔と呼ばれる例の画像が一大ミームとなってしまったのは…
気持ちの悪いオタク顔がチー牛を頼む姿に、産まれたての赤子でさえ「キモ」と発音したという。。。
チー牛の権威は地に落ち、売り上げは激減。チズ牛業界に激震が走った。
チー牛=ロックの図式も無残に崩れ去り、とってかわったのはチー牛=キモ。
当然、チー牛系アイドルこと多田李衣菜もイメージダウンを余儀なくされる。
全国のすき家を慰問していた多田はのちにこう語っている。
「あの時は、本当につらかった。半分は意地だった。」と。
辛い戦いは長く続き、多田は疲弊していた。
ろくにチー牛の食べられない毎日、いつしか、チー牛が何なのか、彼女にはわからなくなっていた。
朦朧とする意識の中、慣れ親しんだ牛丼屋チェーンに入る。
なにかが足りない。なにかが足りない気がするけど、なんだろう。
よくわからない。もうすべて投げ出してしまいたい。
「あれ、こんなところで何してるにゃ?」
慣れ親しんだ声、
「それにしても。李衣菜ちゃんが松屋にいるなんて珍しいにゃ。」
え、なんて?今、なんて?
「松屋っ!!!!!????????????」
「チーズ牛丼ないやんけ!!!!!!!!!!!!!!!!」
絶叫。
筑波大転学騒動記 -klis出たら人生変わった話(ホンマか!?)-
はじめての方は初めまして!
おなじみの方はこんにちは!今日もぼちぼちほそやです。
あれよあれよという間に12月も中盤、2019年もアディショナルタイム!
重ねた年が20にもなると体感時間の速さで小学生にマウントをとれます!
ビバ!相対性理論!もういくつ寝たらお正月すっ飛ばして春C絶起してそうですね!
そして最近はとにかく寒い!財布も寒い!北欧!ツンドラ!
サンタクローーーーーーーーーーース!
今年も僕に100万円を届けてくれる白髭おじは見つからず・・・・・
早く暖かくなってほしいものです。
現在、この記事を屈強な体専生あふれる体バチで書いているのですが、この厳しい寒さとペデストリアンデッキを行き来する学生を眺めていると、僕の脳みそもエピソード記憶の例にもれず、去年のごたごたが想起されるわけであります。
そう、昨年です。
僕は去年、芸術専門学群 デザイン専攻 情報・プロダクトデザイン領域(情報・プロダクトデザイン領域 – 芸術専門学群)の転学試験を受験し我らがklisこと知識情報・図書館学類から無事?転学をしました。
ノウハウが全くと言っていいほど皆無な転学類・転学群(そもそも希望する人が少なすぎる)、新入生向け冊子に短い記事を書いたのとツイッターで不定期にぶつぶつ言う以外はしっかりとまとめたことがないので、需要があるかは分かりませんがこの場をお借りしてまとめていきたいと思いますはい。
※転学、転類と表記がぶれますが同じ意味です。僕の中の勝手な解釈で使い分けています。
※この記事はklis Advent Calendar 2019 - Adventarの記事として書かせていただきます!
もくじ
1.高校~大学入試(2017年秋冬)
2.入学後(2018年4月~)
3.転学を決める(2018年5月)
4.転学準備(2018年5月~10月)
5.一次書類試験(2018年10月)
6.二次実技試験(2018年12月)
7.試験結果開示(2019年1月)
8.最後に
1.高校~大学入試(2017年秋冬)
高校3年生の春ごろから、志望大学として筑波大のメディア創成学類やら、九州大の芸術工学部やら、芝浦工業大学のデザイン工学部やら、武蔵野美術大学のデザイン情報学科やらを意識し始めました。きっかけは何だったか思い出せませんが、昔から映画、小説、アニメ、ゲーム、漫画などが好きで、そういったコンテンツに興味がありました。成績は中の上、数3を受ける理系でしたが得意科目的には文系というよく言えばオールラウンダー、悪く言えば武器がないといった感じでした。
ただ、高校時代は県ベスト16常連ぐらいの忙しいサッカー班(なぜかうちの高校では部活動ではなく班活動だった)に所属していて3年生の10月までずっとダッシュダッシュダッシュ!キックアンドダッシュ!していたので、学力が足りず(特に数学)・・・
どうせ浪人するならチャンスを増やそうということで公募推薦で人数を多く取り、なおかつ、メディア創成に近いこともできる(ホンマか?)と噂のklisの公募推薦を受けることにしました。この年は推薦入試の倍率が確か1.06倍、30人受けて2人しか落ちませんでした(えるゆーしーけーわい☆)。
優秀な高校の司書の先生のおかげもあって、試験はかなりの手ごたえがあり、無事合格、成績開示は9割を超えていました(ここ自慢ポイント)(自称公募推薦主席)
2.入学後(2018年4月~)
晴れてklis18生となった僕、宿舎やサークルでも友達ができ学生生活をエンジョイしていました。
勉強もそこそこに頑張りつつ、それなりに遊ぶ典型的な新入生といった感じでしょうか。ここからの一年、klisでの僕の周りは非常に恵まれていたと思います。
しかし、そんな日々の中、将来に対しての漠然とした不安というか、焦燥感というか、そういうものが心のどこかにあったのは確かです。
周りの人間はある程度のビジョンを持っているようだったし(入学直後でみんな意識が高かったのもありましたが・・・)それと比べて、「私には何も無い・・・」とじっと六畳の部屋で考えるときもありました。
「なるようになる」という言葉が僕は大好きなのですが「なるようにはなる」けど、この大学入学というタイミングがたくさんの「なるようになる」の分岐点に思えたのです。
3.転学を決める(2018年5月)
1年生のころ受けていた授業の一つに総合科目Ⅱというのがあります。(よもやこれを2年生にもなって取っている人はいないでしょう。)僕は興味のあった「デザインと暮らし」という芸専のオムニバス形式の講義を受けていました。これは一週間のなかで一番楽しみな授業でした。
ある日の授業の終わり、先生が締めで「デザインとかに興味のある学生は転類してきてもいいよ」的なことを半分社交辞令で言っていました。ズババっときました。とっさにノートの隅に転類と書き丸で囲ったのを覚えています。転類の制度があるということはもともと知っていたのですが、意識的には完全にノーマーク、フリーでシュートを打たれました。ここから僕は転学についていろいろと考えるようになります。そして、そのことを考える度に「これしかないよなあ」と、もはや直観的に思っていました。僕、ニュータイプなんすかね?
4.転学準備(2018年5月~10月)
相応の知識情報・図書館学徒なりに遊び勉強もしながらいろいろな準備を進めていきました。
まず、転学をするならどこかを考えました。
候補はお隣のメディア創成学類、芸術専門学群デザイン専攻、同じく構成専攻の3つ。
メ創はもちろん馬の合う人はいましたが宿舎での一部のメ創生のノリ、雰囲気からしてあまり好きではなかったし、手を動かす授業が少なそう、数学が苦手、というのもあり、やめにしました。(メ創の人がいたら本当にごめんなさい<m(__)m>)
残るは芸専の二つの専攻、端的に説明するとデザイン専攻はプロダクトや建築のデザイン、構成専攻はアート寄りのビジュアルデザインなどを行うというところでしょうか。
ネットやパンフレット、支援室などで情報や昨年の願書などを入手し、緊急帰省をして両親を説得しました。何をやるところなのか、転学後の考えられる進路先など、一日中、話して両親は承諾してくれました。父は都市計画系の土木技師、母はインテリアコーディネーターの資格を持っているのでそういった方面への理解があったのはとてもありがたかったです。
春日の支援室は対応が冷たくて少し悲しかったです。まあ出てく人間に暖かく接してくれる道理はないんですけどね。
5月の中盤ごろには、ものは試しと受験生に紛れて秋葉原で行われていた受験相談会に行ったこともありました。(年下に紛れて再履をするひとの気持ちが分かりました)お目当ての専攻の先生はいなかったので、相談役の洋画専攻の先生に事情を話しました。非常に驚かれながら、実技試験がおそらくあるが独学でデッサンの勉強をするのはかなり難しいということ、担当の先生にコンタクトをとるとよいということを教えていただきました。
そこで、デザイン専攻、構成専攻の先生にそれぞれメールを「ええい、ままよ!」と送信!ポチっとな!
構成専攻の先生の感触は少し悪く、転学してきた学生をほとんど見たことがない、結構厳しいかもしれないと返信がきたのを覚えています。
一方、デザイン専攻の先生の感触は良く(kym先生愛してる)、何回かのやり取りを経て、試験は一次試験(志望理由書)と二次試験(面接と実技)があり、実技試験の内容は通常受験のものと同じものを課すということや夏休みの進学相談会に来てみてはどうかという話もしました。実際に夏休みには進学相談会に参加して先生方や学生の話を聞きに行きました。
そんな感じでデザイン専攻に志望が固まっていきました。
それと並行して、五月の終わりごろから実技の勉強をし始めました。
つくば市内にある自転車で15分ほどの画塾の受験生向けの講座に週二回で通っていました。
最初はデッサンの基礎から、徐々に本番に出るであろう瓶やコップなどを描いていきました。夏休みの夏期講座が始まるともう一つの実技試験であるアイデアプレゼンにも取り掛かりました。
また、夏休み期間は土浦の教室までチャリで通っていたので土浦の地理に詳しくなると共に「土浦がつくばに来んかい!」と叫んでいました。暑い夏の日でした。
先生には何回も怒られました。部屋に置いてある瓶やコップを見ると嫌になるのは美大受験生あるあるなんですかね?
それでも、回数を重ねていくと秋ごろには未熟ながらもそれなりのものが作れるようになりました。
5.一次書類試験(2018年10月)
10月のはじめ、TWINSの片隅にひっそりと転学希望者向けの掲示がでます。(普通に生きていると絶対に気づきません!)この掲示の後、支援室に行くと願書と要項を受け取れます。
ただ、願書提出の締切は10月15日らへん、なんと配布開始から2週間ほどしかありません。しかもこの間に、親、クラス担任の先生、学類長の印鑑が必要になります。
僕は大急ぎでアポをとり、それぞれの印鑑をゲットしました。担任の先生との面談はあっさり終わったのですが、学類長は成績やら、とってる授業やら詳しい志望理由やらしっかりと聞かれました。
志望理由書は画塾の先生の指導のもと完成させました。
なんとか締切3日前で願書を提出。
11月の中頃に一次試験合格の通知を支援室で受け取りました。
6.二次実技試験(2018年12月)
一次試験を通過させるということは採る気があるということ!
12月は画塾へ行く時間を増やし、最後の追い込みをブルンブルンとかけました。
面接の練習もかなりやりました。
(12月のはじめに名古屋へライブに行ったり色々あったりはしましたが・・・)
試験はテスト期間の平日、授業のない日を選んでやってくれます。
午前中はデッサン2時間、午後はデザイン案作成4時間+面接というかなりハードな日程、、
当日は思ったより緊張はなく程よく集中していたと思います。
芸術系棟に案内され試験開始
最初のデッサンでは定番のパイプイスがくるかと身構えていたら、レモン二個とガラス瓶がモチーフでした。レモンと瓶の大きさの対比と瓶の描き込みに時間をとられましたがどうにか時間内で描き終了。100点満点で言ったら55点ぐらい。
次のデザイン案は「金銭を介さない価値の交換で学生生活を豊かにする製品やサービスを考えなさい」的な設問でした。4時間のうち2時間ほど熟考し、A3用紙二枚にまとめました。確か、みんなの記憶から学内で起こった自称を全てデータ化し、共有する施設を考えました。(記憶があやふや)これも100点満点で言ったら65点くらいの手ごたえ。
最後の面接はデザイン専攻の先生7人ほどと向き合って行いました。教室に入った瞬間は「圧」を感じましたが、面接が始まると終始、和やかな雰囲気でした。志望理由を話した後は「サークルは?」とか「芸専の授業は受けた?」とかの質問が続きそれに対して答えていきました。ネタが尽きたところで終了。短いようで長い15分間だった気がします。
試験の手ごたえは全体的に見て及第点という印象でしょうか。
とにかくやれることはやりきりました!
7.試験結果開示(2019年1月17日)
年が明けた1月の中旬、春日の支援室で結果通知の入った封筒を受け取りました。
昼休みに受け取りに行ったのですが怖くて3限が始まっても開封できませんでした。
厚生棟前の広場を行ったり来たり、ベンチに座ったりすること30分ほど、ようやく封筒を開けました。合格の文字を見たとき僕は小さくガッツポーズしていました。そのあとちょっと涙目になってました。
すぐに親や友達に報告をしました。
みんな祝ってくれて涙がちょちょぎれました。
部屋に帰ってからもずっとエモくなってました。
8.最後に
転学した現在、僕は課題に追われつつも楽しくやっています。
転学あるある留年が少し怖いですがそれ以上に充実しているのではないでしょうか。
そこまで得意ではないけど好きなことができるのはとても幸せです。
リラックスして色々できたのも周りの友達のサポートや理解があったからかなと思います!
ほんとうにありがとうございました!
僕はこの素晴らしい知識情報・図書館学類にいた日々を忘れることはないでしょう!
では最後にklis最高コールで締めたいと思います!
klis最高!! パパンパパンパン!!
klis最高!! パパンパパンパン!!
klis最高!! パパンパパンパン!!
ではまたの機会に!